おたぱっくQB(救援便)/第3便・福島キャラバン報告(山本夜羽音)

組合員北島が参加した「おたぱっくQB救援便」の第3便の報告が、隊長(責任者)である山本夜羽音さんがしておられます。山本さんから快諾を得ましたのでこちらにミラーリング掲載いたします。転載元はhttp://blog.livedoor.jp/otapackqb/archives/4822212.htmlです。

尚、報告に記載されている山本夜羽音さんの親友である漫画家の「はやぶさ真吾」さんは、南相馬被災現地に実家があり、震災で圏外に避難しているにも関わらず、私たちに会うため戻ってくださいました。はやぶささんは東京都青少年育成条例の危険性を訴え、条例改悪反対運動を数年間にもわたって地道に続けてこられた方です。

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おたぱっくQB(救援便)/第3便・福島キャラバン報告
山本夜羽音

【活動紹介・支援計画概要】

おたぱっくQB準備会は、被災地の子供たちにマンガ・アニメ・ゲーム・おもちゃを贈ろう!という支援活動を実施している任意団体です。これまでに、全国から寄託された物資を Human Recovery Project 様の協力で、主に宮城県石巻市南三陸町周辺に2回にわたって届けました。

おたぱっくQB準備会URL
http://blog.livedoor.jp/otapackqb/

Human Recovery Project
http://hrp-diymusic.blogspot.com/

今回の第3便は、おたぱっくQB準備会単独としては初めての支援物資輸送になりました。直前に、すぐろ奈緒杉並区議と杉並区・震災支援対策担当の大藤参事のご尽力で、「災害地緊急車両通行証」を即日発行して頂きました。また、レンタカー借受の際、「フリーター全般労働組合」様のご協力を頂きました。

すぐろ奈緒(杉並区議会議員)ブログ
http://naosuguro.blog135.fc2.com/

フリーター全般労働組合
http://freeter-union.org/union/

5月13〜15日の日程で、ドライバー2名、ボランティア2名と責任者・山本夜羽音の計5名で、支援要請のあった南相馬市児童クラブとリゾートイン磐梯(猪苗代町)の避難所を巡回することになりました。福島県宮城県などに比べて支援活動が遅れているという事前情報もあったため、視察も兼ねた行動です。
空気中の放射性物質をcpm値で計測できるガイガーカウンターを「たんぽぽ舎」様からお借りして、移動中の放射能値の逐次計測も実施しました。時系列の報告をボランティア参加者のみゆらゆさんがTwitterで呟いています。
http://twitter.com/miyurayu/status/68905788374122496
http://twitter.com/miyurayu/status/69768412326400001

たんぽぽ舎
http://www.tanpoposya.net/

5月13日午後、おたぱっくQB準備会の井草、高円寺、四谷にある寄託物資約400箱、2万点超の物資を積み込み、福島方面に向けて出発しました。

(仕分け作業:小島撮影)

(満載の支援物資:山本撮影)

【5月13日】

東北道を北上し、福島市内から国道115号線を経由して南相馬を目指しました。通常、中通りから浜通りに抜ける幹線である国道114号線は、計画避難区域と20キロ圏内を通過するため区域内は通行止めで使用できません。

東北道那須高原付近からガイガーカウンターのcpm値が徐々に上がっていきます。福島県内に入ると、応急処置の高速道路で車が跳ねる状態でした。
途中、伴走車がカーナビの誤った指示で114号線に入ってしまい、2時間ほどロスするハプニングもありましたが、115号線の山道を東進します。

峠にある伊達市霊山のSAでcpm値を計測した時、一行に緊張が走りました。528cpm、それまでの5〜50倍の値。この地点は「ホットスポット」と呼ばれ、計画避難地域外でありながら異常値を出している地点として、福島で活動しているボランティアにはよく知られていました。後に、自治体判断での自主避難計画が発表されましたが、政府による公式な対策はいまだなされていません。

伊達市霊山PAでの車外測定:山本撮影)

相馬市内に辿り着き、復旧間もない国道6号線を南下します。115号線を通った印象として、非常に厳しい山道でした。浜通りへの支援ルートがこの幹線に限定されている状態を解消しなければ、冬には支援が途絶してしまうのではないかという危惧を覚えました。

6号線を走っていると、真っ暗な浜沿いに、田んぼに乗り上げた漁船の残骸が飛び込んできます。翌朝見るであろう光景が容易に想像できました。

深夜11時、ようやく目的地の南相馬市原町区大甕(おおみか)の「ビジネスホテル六角」に到着しました。このホテルは奇跡的に津波被害を免れ、近隣の支援物資配布所としても機能しています。
しかし、ほんの100メートル先には検問所が設置されています。福島第一原発20キロ圏の警戒区域のわずかに外側、30キロ圏内の屋内待避区域の最前線に位置していました。

(ビジネスホテル六角:小島撮影)

警戒区域検問:小島撮影)

ここで、親友であるマンガ家、はやぶさ真吾と再会を果たしました。
ホテル六角ははやぶさの実家で、彼は避難している仙台から私たちに会いに戻ってきてくれていたのです。

経営者のお父上は長年、この大甕地区に計画されていた産業廃棄物処理場の反対運動に、南相馬市桜井勝延市長とともに携わってこられました。
奇しくも、産廃処理場化を阻止した山が防波堤となって、この集落を津波被害から救ったのです。

産廃処理場反対の立て看板:山本撮影)

次々と体験する「被災地の現実」に武者震いを憶えつつ、明日に備えて休息をとりました。

【5月14日】
早朝、ホテル周囲を自転車で散策しました。

検問所の様子を動画で撮影。

バス停で一つ隣の萱浜地区へ向かいました。2ヶ月たったいまでも、津波の爪痕が生々しく残っていました。あまりの光景に、立ち尽くすばかりでした。


(原町区萱浜集落:山本撮影)

8時半、南相馬市役所へ向けて出発しました。
一夜明けて、6号線沿いの瓦礫や漁船の残骸がはっきりとわかります。


国道6号線、鹿島区近辺:小島撮影)

南相馬市役所で、桜井勝延市長を表敬訪問。
和やかに、30分以上お話をさせて頂きました。支援物資の配布許可を頂き、原町区の社会福祉協議会へ向かいました。


桜井市長の似顔絵を描く山本:小島撮影)

原町社協では、幼児教育課課長にご快諾頂き、50箱以上のマンガや絵本などを再開間もない児童クラブ向けに寄託することができました。


(原町社協での荷下ろし:小島撮影)

その後、市内の避難所を順次訪問。石神第一小、原町第一小、原町第二中の各避難所に物資配布。避難所の子供の数は極端に少なく、事前の仕分け作業で区分した大人向けマンガ、書籍やボードゲーム、DVDシステムなどを配布。避難所で大変な緊張感と禁欲生活を強いられている被災者にとって、大人向けの娯楽や嗜好品なども求められていました。
また、夏物の衣類やシーツ、夏掛け、サンダルといった物資を要望しても届けられない事実を担当者からお聞きしました。こうしたミスマッチは、支援活動をしているボランティア間で早急に共有、反映されるべきと痛感しました。
私たちとしても、支援活動にとって必要なのは「送りたいモノ」ではなく「求められているモノ」であることをいまさらながら痛感しました。子供のいない避難所に絵本やおもちゃを送りつけても、何の意味もありません。
移動時間の都合で、残る鹿島区デイケアセンター避難所を諦め、次の目的地であるリゾートイン磐梯避難所へ向かいました。


(避難所での作業:小島撮影)

5時間半で、猪苗代町・アルツ磐梯スキーリゾートにあるリゾートイン磐梯避難所に到着。ここでは、あらゆる種類の子供向け支援物資と、大人向きコンテンツを降ろすことができました。
140人ほどの避難所に滞在する被災者の大半は、原発事故によって避難を余儀なくされた南相馬市浪江町の被災者でした。子供たちも乳児から中学生30人ほどが避難していて、マンガやおもちゃ、ぬいぐるみをコミュニティースペースに広げたとたん、歓声を上げて集まってきました。コンテンツを年齢別に区分陳列することにより、床に座り込んでマンガをむさぼり読む子供や大人で溢れました。


(磐梯避難所での陳列:小島・松本撮影)

この避難所では、子供たち向けのプログラムを開催しました。「マンガ家・山本夜羽音の似顔絵コーナー」。子供たちが行列を作る中、ひたすら似顔絵を描きました。マンガ家としてできる、数少ない支援活動だと思い実施しましたが、望外の反響でした。似顔絵が描かれた色紙とぬいぐるみを握りしめて、満面の笑みで走り回る子供たちの姿に内心、してやったり!という思いでした。

(子供向けワークショップ:松本撮影)


(似顔絵コーナー:松本撮影)

【5月15日】

午前中、引き続き子供たちの似顔絵を描いたあと、いわき市内に向けて移動を開始しました。

(似顔絵コーナー2日目:松本撮影)

この日行われる、福島県内では過去最大規模の反原発デモに参加するのと、いわき市内の避難所への飛び込み営業、情報収集が目的です。

磐越道東北道以上に道が荒れていました。2時間ほどでいわき市に到着。

いわきでの反原発デモは参加者500人、6〜7割が県内の参加者でした。経済的に、原発産業に依存してきた地域で反対の声を上げることは相当な覚悟だと感じていましたが、デモ行進中の反応は驚くべきものでした。
最大の避難所である平市民体育館前では、被災者の方々が一斉に窓を開け、拳を突き上げて声援を送ってくれました。消防署の櫓からガッツポーズでエールを送る消防署員の姿がありました。駅前では制服姿の高校生や子連れの母親が隊列に加わり、デモ隊の人数がふくれあがりました。
思想信条の問題ではなく、原発災害に対する怒りがこの地では紛れもない「一つの民意」として存在していると感じました。


(デモ風景:小島撮影)

帰りの時間が迫る中、平市民体育館に若干の不足している物資を届けました。この避難所には書協(書店協会)から潤沢なマンガなどの物資が既に届けられていたため、こちらからの物資提供は辞退しました。

最終的に、帰京して東京での作業を終えたのは17日午前2時でした。

【まとめ】

これまでの支援行動は手探りで始めたため、点在する避難所に飛び込んでゲリラ的に物資を配布する形でしたが、今回は事前の支援要請との連携が奏功し、予想以上の成果を上げることができました。
また、同時に試行した似顔絵イベントも成功し、今後の支援活動に有効であるという感触を得ました。

おたぱっくQB準備会の倉庫には、まだ届けられていない支援物資が山積しています。今後も可能な限りの支援を継続していきたいと準備しています。

最後に、今回の行動を物心体それぞれで支援して下さった多くの皆さんに深く御礼申し上げます。

(2011年5月21日 山本夜羽音:記)

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