なぜ反富裕か 自由と生存のメーデー 5月2日 1300原宿駅

さて、もう明後日なのですが、今年の「自由と生存のメーデー」の内容について、実行委員会での討議を少し説明します。

 メーデーのサブタイトルは「反富裕―LifeisaScandal」です。なぜこのタイトルなのか。それは私たちがこの社会を生きるには、「反富裕」という視点を手に、自身の生が「Scandal」であることを認める方がいいと考えたからです。

 この社会では、あらゆる場面・場所を金もうけの対象とする「自由」が強められています。自然や公共物、人間関係や人の身体・精神・感情のあり方と働きに至るまで、その領域と強度の拡大はとどまるところを知りません。見る間に駅や公園が企業活動の場になり、人の存在とその「はたらき」が、どれだけ金になるかで評価されるようになっているのはその結果です。現政権は労働者派遣法や労基法の改悪に進んでいますが、「自由な働き方」は企業の雇用責任からの解放を、「成果に応じた賃金」は賃金を生活上の必要や拘束時間から切り離して低額使い放題を可能にすることを意味しています。

 その結果、この社会では貧富の格差が拡大し、富はますます富裕層に集中し、生の困難はますます貧困層に集中するようになっています。今でもわずか0.1%の世帯に73兆円の株や預貯金が集まり、それはますます拡大しています。一方私たちと仲間と言えば、土地はおろか3か月をすごす貯蓄すらなく、ハラスメントと未払い、過労といじめに満ち満ちた労働現場と関わりを持ちながら生きるほかはありません。なぜなら避難先であるはずの生活保護は、バッシングと切り下げのさなかに置かれているからです。

 ではどうすればいいのか。これまでの社会は、誰もが「自身の努力と責任」で豊かになれると約束してきました。いまもその約束は有効でしょうか。残念ながら無効であることは明白です。周りを見渡してみればいい。数年先まで安定して保障される仕事はどこにもない。調子が悪くても市販薬でごまかして病をやり過ごさなければならない。滞納続きで携帯が止まったり家を追い出されたりを心配し続けなければいけない。路上に出れば地域住民や警察の襲撃を気にしなければ生きていけない。こんな状況でしょう。このような扱いを受けるのは、決して私たちの努力が足りないからではない。まして私たちが無責任だからではない。私たちはすでに、経済的な価値を生み出すために必須の「生産者」や「消費者」として扱われていない。その期待すらされない私たちは労働社会へと廃棄されているわけです。

 しかも、いままた輸出企業を守るために物価は上がり、金持ちの資産を守るために消費税は増税されようとしています。福祉国家は所得への累進的な課税制度と教育や社会保障への歳出の増加を通じて所得を再分配することで人々の生の権利を保障しようとしてきました。だがついにこれは逆転し、貧乏人から富裕層への分配が強化されているとみるべきです。そもそも「金もうけの自由」は、すべての人に開かれた自由ではありません。その自由を謳歌するには、元手となる土地やお金、教育水準や有力なコネなど、私たちが手にすることのできない資源に恵まれなければなりません。「金もうけの自由」はすべての人に開かれる権利としての自由ではなく、これら資本・資産を潤沢に有する人々、富裕層にとっての特権的な自由です。

 だから私たちは「反富裕」の立場に立たなければなりません。まずは富裕幻想を断ち切ること、次に貧乏人から富裕層への再分配を止めて、富裕層から貧乏人への再分配を求めることが必要です。

 必要だ。だからよこせ。このことをメーデーでは訴えていきます。