地球公論5

自由と生存が引き換えにされる社会にメーデーを。
「自由と生存のメーデー08―プレカリアートは増殖/連結する」に寄せて

山口素明

不安定さを基調低音とする社会において、私たちは労働に過度に道徳的な意味づけをする振る舞いを身につけてきた。自分がいかに真摯に「仕事」に向き合ってきたのか、いかに「仕事」をこなす能力に優れているかを表明することに、すなわち、あいつがいかに不真面目であり無能であるかをあげつらう振る舞いに、私たちはすっかり慣れてしまっている。
このような振る舞いが、法律をも無視した企業経営者の仕打ちに「社会的合意」を与えているのは事実だ。高校を卒業して入社した直後から「店長」として週7日の勤務を強いられ、体を壊して入院を余儀なくされた女性。仕事がのろいと殴られ蹴られながらも、日々14時間労働に従事する男性。ぎりぎりのところまで彼らが耐えてしまうのは、労働を道徳と結びつけるこの社会の視線があるからだ。
その視線の行く先には、自由と生存を引き換えにする視線がある。農民やフリーランス、零細の商店主、自営業者が投げかけられると同時に、他人にも投げかけてきた視線がフリーターにも向けられている。ひとつの職場にとどまることのない自由さがあるのだから、低賃金や待遇の悪さは我慢すべき。安定した生活を求めるなら雇用される能力を高めればよい。現在の境遇はその努力を怠ってきたツケなのだから、自己責任ではないか、などのもの言いである。
しかし、これらの答えはいかにも空疎だ。実に女性と若者の半数が非正規雇用におかれ、1000万人が年収200万円以下で生活している。また日々、雇用される能力を測られて働く正社員は、つぎつぎと過労死、過労自殺へと追い込まれている。このことをどう考えるのか。自己責任を問い、自由を生存への掛け金とする視線はこの疑問にまともに答えることができない。
もちろん見返せばすべての人々が心底そのように思っているというわけでもない。しかし一方でそのような自分の立ち方を軽蔑しながらも、私たちはその振る舞いに身を寄せずにはいられないのである。クソみたいな労働であっても、ないよりはまし、その機会を失えばただちに社会的には存在しないも同然の扱いを受け、困窮状態に陥る。そうすればただでさえ滞りがちな家賃の支払いは不可能になり、雨露をしのぎ体を休める場所すら失うことになりかねない。そのような事態を回避するために、自らの「仕事」を評価する先輩、管理者、上司、クライアント、へのアピールと交渉が続いていく。そして何より野宿者への社会的排除への「社会的合意」が、この私たちの恐怖を固く支えている。彼らが私的所有にさらされない空間として残されたはずの公園や駅頭からも追い立てられ、日常化した差別と襲撃にさらされる様子は、私たちの恐怖を沸き立たせる熱源となっている。この恐怖が労働を過度に道徳化し、自由と生存の強制交換を促しているのだ。
生きることを際限のない競争の果てに与えられる不安定な褒賞にしてよいはずはない。この世に生を受けたのは、何も身を粉にして働き続けるためではない。生きることはただ働くことではなく、人と出会い、さわぎ、楽しみ、別れることのすべてだからだ。
この当たり前のことを表現し訴えるために、私たちは「自由と生存のメーデー」を呼びかけてきた。私たちのメーデーのデモがサウンドデモとして企画されるのもそれが理由だ。参加者は統一のスローガンを唱和するのではなく、それぞれが置かれた生の現実から発言し叫ぶ。そしてときに労働者ときに消費者として、あるいは排除される者として私たちが接してきた街を、互いが豊かにかかわり生きる場所へと取り戻すのである。
4回目となる今年は、居住と差別と戦争をテーマに、憲法記念日でもある5月3日に集会とデモとパーティを行う。そして東京を含め名古屋、札幌、京都、熊本、福岡、松本、広島、岐阜、仙台、大阪、つくばみらい、全国13都市で独立系のメーデーが開催される。また、ユーロメーデーとの連携を求めて東京の実行委員会から2名をミラノ、ベルリンに送り出した。8時間労働制を求めてシカゴの人々がストライキを行ってから120年以上を経て、ようやく始まった自由と生存を求める取り組みに参加していこう。

light--5 目次
【巻頭】「自由と生存が引き換えにされる社会にメーデーを」 山口素明

【取組み】「K社との闘いを終えて」 大森美弥

     「グッドウィルフジフーズ団交に参加して、プレカリアートの現状と運動を考える」 攝津正

【読物】「漂流組合員が行く!−3」 細木悟

    「零細自営を生きる−2」 江部和秀

    「社員から派遣労働職の生をつかんだある女の潜勢力」 滝本静香

【論考】「全入大学の窓から」 鈴木隆