備考1 反撃の「暴力」の肯定は殺人の容認ではない

 反撃の「暴力」を肯定するという記事を書いた組合員Nです。そちらの記事で、それでは「秋葉原事件の彼」を肯定することになってしまうではないか!というコメントをちょうだいした。
 〈反撃としての「暴力」肯定〉は釜ヶ崎暴動から説き起こしたものであり、その文脈から外れるつもりはない。釜の暴動の根底には、警察に対するリンチのオトシマエをつけろ、謝罪しろという要求がある。〈反撃としての「暴力」肯定〉は具体的にいうならこの要求を断固支持するということであり、「野次馬」も含む「騒ぎ」総体についても、寄せ場で生きてきた人間に対する警察の差別への反撃という意味で肯定するものである。エクスキューズが多いようだが、ただしこれは個々の行為について評価するものではない。
 釜ヶ崎秋葉原を並べた当記事があるのであえてこちらに追記する次第だが、私は「秋葉原の彼」の行為を支持できない。これは私自身が係ってきた社会運動において広く確認されてきた「殺すことはない」という理念からしても到底認められない。どう考えても殺し殺されるような関係は肯定できない。しかし外在的な評価においては「暴力的」とされがちな、多様な「反撃」そのものを全否定することもできない。では個々の具体的な行為についてはどうなのかと問われれば、以下のように書いた通り、というのが今のところの応えだ。

無前提に反撃の「暴力」を肯定せよというのではない。そのありようと結果については評価の自由があってしかるべきだ。しかしそれも主体的な捉え返しにおいての自由である。この自由とはまた、「暴力」=「力」を無前提に否定してもならないといって憚らない、制限された自由である。

(N)