【越冬人事交流報告】 大阪 扇町公園+釜ヶ崎

報告遅くなりました。
元日から3日まで大阪での越冬闘争に参加してきたので報告。

晦日実家のある仙台に帰省中、関西の「08年→09年越冬闘争に連帯する学生・フリーター実行委員会」(以下 学フリ実)http://d.hatena.ne.jp/ettou08/フリーター全般労働組合(以下 F労)との人事交流を求めているという連絡を受け、翌日(元日)大阪まで新幹線で移動することに。前日の地元の幼馴染達との新年会や「朝まで生テレビ」による睡眠不足が逆に長距離移動の辛さを感じさせず行きの新幹線は半分以上眠りについていた。

扇町公園到着〜夜警」

夜22時過ぎ今年の関西越冬闘争の現場の一つである大阪キタの扇町公園に着き、学フリ実の面々と久しぶりの再会。野宿のおっちゃんおばちゃん達や釜パト(釜ヶ崎トロールの会)http://kamapat.seesaa.net/の人達や見知った関西在住の支援者達、それに驚かされたのは正月漂流中のF労組合員のKもいて焚き火を囲み暖をとっていたのだった。扇町公園の存在は公園に住民票登録を求めた山内さん裁判http://kamapat.seesaa.net/category/760758-1.htmlの件や毎年の越冬闘争の現場で名前だけは知っていたが、実際に訪れるのは初めてであった。

すでに眠りについている人達も多く自分達は声を潜めて話していた。着いてまもなく夜警を始めるという。普段面倒なことは避けがちな自分も今回ばかりは何でも積極的に参加しようと心に決めていた。12時から2時半まで自分を含め3人が今回越冬闘争のために用意したテント群の裏の道路に面した場所を担当し焚き火を焚いて、様々なことを話して時間が経過するのを待っていた。2時半がきて夜食の山菜そばをいただき、次の日に備え寝ることに。冬の野営は一昨年12月の隅田川生活保護申請集団野営行動以来、借家人としては不純かもしれないが少し楽しみにしていた。しかし学フリ実の方から今日は疲れているだろうからと知り合いの家の寝床を確保してくれていた。彼らは実行委側に負担のかからないように自分達のことは自分達で準備するようにしていた。夜警中の仲間達に挨拶をかわし今日のところはひとまず扇町公園を出て今日の宿泊先に移動。



「キタ越冬運動会」

翌日(2日)10時起床。今日は大阪キタ越冬祭り恒例の運動会。とてもいい天気だった。
公園内では家族連れが凧揚げをしたりキャッチボールをしたり正月休みを楽しんでいる。それにしても昼間に見るテント群は夜とはまた違い、異彩を放っていた。今回越冬の為に建てたテント群は全部で3棟。最大30人が寝泊りできる大きなテントだ。普段は空き地になっている場所に堂々と建てられ、周りには日頃から生活しているブルーテント小屋が8棟くらい隣接していた。東京でもブルーテント村は自分の住んでいる周辺では新宿中央公園や代々木公園、宮下公園などに点在している。しかしそのどれもが隅に追いやられあまり人目につかないところにひっそりと暮らすことを余儀なくされている。扇町公園の南側に位置する越冬闘争の為に用意されたテント群は夜には見えなかったが圧倒的な存在感でそこにあるのだった。日常的に蔑視され隅に追いやられ排除される人々がそこにいることで、ないものとされる自分達の存在を社会に浮き彫りにさせていた。年末年始行政機関が休みに入り、日雇い仕事が無くなり、アルミ缶買い取り所も閉まり、いつにもまして路上生活を強いられる者達などが路上に溢れかえる。厳冬期のこの季節に一人の路上死も許さないと、行政から与えられたものではなく、仲間達と共に自律した空間を作り出していた。
そうこうしている内に腕相撲大会、缶潰し競争、扇町公園一周マラソン大会(自分ら若手は2周)が開催された。参加者は30人くらい。自分も全ての競技に参加し楽しんだのだった。みんなとても楽しそうだったのが印象的だった。
 


「南港臨時宿泊所」

運動会が終わり14時からは南港臨時宿泊所見学会に参加することに。
臨時宿泊所は1970年からあいりん地区の労働者の越年対策事業として大阪市が行ってきた。入所するには29、30日の2日間で西成区の市立更正相談所で受付、面接を済ませなくてはならない。受付では行政による不当な申し込み拒否がないように毎年監視・押し込み行動が組まれるそうだ。入所に際して一昨年から結核検診カードの義務付け、昨年からは40歳以上の年齢制限などが追加され、生活保護を受けているもの、所持金が3万以上の人たちは受け入れを拒否される。雇用保険被保険者手帳(白手帳)を持っている人や、高齢者の就労事業である特別清掃事業に登録している人などを想定し、釜ヶ崎以外での派遣切りや非正規労働者たちは対象にしていないと、行政は言うが、これも不当な分断である。毎年、必要としている人は全て入れるようにするため、根強い活動が行われている。入所人員は1998年の2824人をピークに減少しつつあるが、昨年は1320人、今年は最大1400人収容で1334人が利用。そして今年は29日から5日朝までと昨年よりも2日間短縮された。40歳未満の受け入れ拒否、2日間の期間短縮など時代に逆行した政策に仲間たちが市役所前で抗議の声を上げた。http://www.news.janjan.jp/area/0812/0812123360/1.php
扇町公園から釜ヶ崎に移動し、バスに乗り込み30分、南港臨時宿泊所は大きな橋を渡った工業地帯の一角、周囲にコンビニなど一切無く歩く人など皆無に等しいところに位置していた。約2億円という自分達には想像もつかないような金を使いこの僻地に建設する理由は明らかに隔離収容以外の何者でもない。労働者の団結を恐れ常に警官が常駐している。おそらく路上よりは快適な暮らしができるかもしれない。しかし出入りが制限され、自由を奪い3人以上で話することさえも許されないというのは果たして人間らしい生活といえるのだろうか?
大阪市健康福祉局職員2名、社会福祉法人大阪自彊館の職員14名が主任指導員として、体育会系の大学生40名のアルバイトが指導員として9時から19時、19時から9時の2交代で管理を担っていた。労働者と.話してはならない、写真撮影は禁止、6人交代などを条件に見学が許された。360平米に2段ベッドが48台http://www.news.janjan.jp/living/0812/0812304429/1.php
毎年2億円以上もの金を使い年末年始の期間だけの為に建設しては取り壊されるのだそうだ。どこからどうみても差別行政以外の何者でもない。
日本国憲法25条
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

釜ヶ崎越冬祭り」

臨泊見学が終了し釜ヶ崎に戻った自分達は釜ヶ崎越冬祭りが行われている三角公園へ向かった。初めて見る三角公園。はっきりいって強烈だった。色やにおいなど、釜ヶ崎越冬祭りは間違いなく今まで自分が行ったことのある空気とは違う。公園の外では公安警察が常に弾圧の機会を伺っているのだが、公園内にいると相手が権力であろうと手出しは出来ないような錯覚に陥るほどだった。至る所で焚き火が焚かれている。炊き出しに並ぶ労働者の数も何人いたのだろうか?蛇のように列を成し、何重にも重なった列は先頭からプラカードを持った最後尾をすぐには見つけられないほどだった。
1970年から始まり、今回で39回目になる釜ヶ崎越冬祭りのテーマは、
「今こそ安心して働き、生活ができる釜ヶ崎を! 野宿しなくてもいい仕事を!」
着いたころ舞台ではフォークソングが唄われて目の前にいる労働者達に語りかけるように進行していく姿に見とれていたのだった。19時からは西成育ちのラッパー、「SHINGO☆西成」が出ると聞きますます心は躍った。SHINGO☆西成がラップしているとおっちゃんおばちゃん達がやじをとばし、それに応えるSHINGO☆西成。舞台の前ではみんなそれぞれ自分だけのオリジナルダンスを踊っていた。途中一人のおっちゃんが紙を舞台の前に置いた。それを SHINGOが代弁した。
釜ヶ崎は一つ」
「団結」
釜ヶ崎越冬祭りとはまさしくそれだった。


「人民パトロール

この日の祭りはSHINGO☆西成で終わり、これから天王寺駅まで地区外の野宿を強いられる仲間たちに釜ヶ崎の現状を訴え、越冬闘争の参加を呼びかける、「人パト」(人民パトロール)に出るという。センター前で配布用のビラとほっかいろを貰い50人くらいが集団となって出発。聞くところによると昔は三角公園から出ることも許されず機動隊が労働者に暴力を振るい一歩も外へ出さないということもあったのだそうだ。今は機動隊こそでないものの公安警察が何十人も後ろにつき弾圧の機会を伺っている。それでも日ごろ虐げられた労働者の噴出した怒りはやられたままでは済まされない。堂々と赤信号の交差点を渡り、襲撃で殺された仲間の場所へ行き追悼をし、天王寺駅では構内でビラを巻き釜ヶ崎の現状を道行く人たちに訴えるのだった。昔は改札も突破し地区外の仲間の下へ駆けつけるなど「今でこそ落ち着いてきてはいる」と聞くものの初めて参加した自分にとっては釜ヶ崎の歴史を垣間見る行動であった。団結した民衆は決して打ち負かされない!そう思える行動であった。

人パトが終わり再び扇町公園に戻り夜警へ参加。
途中警察が「焚き火をしていると通報があった。」とパトカーで来る場面があった。多くの仲間が駆けつけ事なきを得たがここでも運動の歴史を感じさせるものであった。ちなみに公園内の看板には「公園内での火気の使用は禁ずる。公園にテントを張るなどの行為を禁ずる。」などが書かれている。寒さをしのぐ為に暖をとり、雨風をしのげるようにテントを張るのもごく当然の行為である。今回の扇町公園での越冬期間中に炊き出しに並んだ人数は延べ1000人を少し超えたのだそうだ。若い世代でいうと20代から40代の人達が数人きている程度だったとのこと。毎年徐々にではあるが若い世代も増えてきているらしい。野営テントには多い時で約50人程度が利用したとのこと。


釜ヶ崎越冬闘争ツアー」

翌日(3日)扇町公園から再度釜ヶ崎に移動し、釜ヶ崎講座http://cwoweb2.bai.ne.jp/kamakouza/の「釜ヶ崎越冬闘争ツアー」というフィールドワークに参加した。案内人の水野阿修羅さんと共に歩き釜ヶ崎の歴史を教えてもらう。公園や路上から排除されていく歴史、借家人組合の出てくる流れ、簡易宿泊所、福祉マンション、アパート街、外国人ゲストハウス街、喫茶店弁当屋、住民票がなくても講座を開設できるあいりん銀行、貸ロッカー業が繁盛する事、行政による野宿者対策、労働者たちが交流する場所が減りつつあることなど、それに加え機動隊、監視カメラや麻薬密売人などを目の当たりにし寄せ場という場所を歴史と共に学んでいくことができた。しかし本当に濃くてまだ消化できないでいるというところだ。
最後に釜日労(釜ヶ崎日雇労働組合)の方が「釜ヶ崎で学んだことを自分たちの現場で少しでも生かせてもらえたらと思います。」と言っていた。年末からの日比谷での派遣村の報道など派遣切りと「ホームレス」という分断の仕方が目に余って仕方がない。野宿者問題と派遣切りの問題を切り離して考えようとする物言いに今回の釜講座を通して学んだことを生かしながら考えていけたらと考えているところだ。



釜ヶ崎講座最終地点、三角公園に移動し自分はここで関西をあとにすることにする。
釜ヶ崎を抜けるとすぐそこには正月休みで賑わう新世界があった。一本の通りを隔てた場所にこんなにも違う世界が広がっていることに自分はただ驚くばかりだった。

(組合員T)