論点3 権利と義務のアンバランス

これもGSUの取り組みについて寄せられたコメント

ガイアの夜明けを見ました。関東鉱油で30年以上前の学生時代にバイトをしていたので驚きました。バブルを越え、会社も社会も変わったんですね。当時私は高校生でした。今はフリーターと称して、バイトで充分生活ができるとは、いい時代ですね。拘束されるのを嫌ってアルバイトの身分を確保しながら、正社員と同じ権利、というのはどうなのでしょうかね? 権利と義務のアンバランスを感じるのは私だけでしょうかね?


「権利は義務と引き換えに与えられる」というのはよくある理解だ。もちろんこれを言うのは決してあなただけではない。また、これを言う人は、たいていあなたのように、伝家の宝刀を抜くがごとくこの言葉を記す。このことが私には不思議でならない。まったくそれがなまくらで切れやしないことに気づいていないことがである。
「権利と義務のバランス」を主張する人の想念は、おそらく権利と義務を量的に把握している。あたかもそれが天秤の両端にでも吊り下げられているかのようなイメージ。そしてその重さは恣意的に操作できる。論理的な必然としてではなく、誰かが、バランスを重視し、両側に何を架けるのかを操作できるものと考えている。権利を得れば義務も重くなり、義務が軽くなれば権利も軽くなる、という具合にだ。究極的には義務を果たさざるものに権利なし、ということになる。恩恵としての権利観の行くつく先だ。

また、このような物言いをする人々に限って、権利と義務の具体的な内容を記すことがない。誰が何を権利として主張し、義務として負うことを書くことがない。あるいは記した時には甚だしく間違っている。

たとえば先に引用した人の記述では、

(アルバイト) 拘束されない--十分生活できないほど待遇が悪い
(正社員)  拘束される--生活できるくらいに待遇が良い

という対応がバランスのとれた義務と権利の関係と理解されている。
だからバイトがストライキなどやって権利を主張すると、

(アルバイト) 拘束されない--生活できるくらいに待遇が良い
(正社員)  拘束される--生活できるくらいに待遇が良い

となってバランスを欠くと言うのである。

まず、拘束される/されない について。
アルバイトだろうが正社員だろうが、雇用契約を結んだのなら契約の条項に拘束される。もちろん労働基準法を下回ったり公序良俗に反する条項は無効だからそれには拘束されないのは当たり前である。アルバイトは辞めるのが簡単だが、正社員はそうもいかない、と言う人もいる。これもよくある嘘だ。雇用契約の解消は労働者側から申し入れることができる(民法627条)のだから、辞めるにあたってこちら側の差異はない。はて。何を指して拘束される/されないと考えているのだろうか。

待遇についても不思議だ。十分生活できないほど待遇が悪い、のは問題である。生活できないほど待遇が悪い職場がないように、労働基準法があり最低賃金制度がある。また、働けないことによって生活が破たんしないように、生活保護制度がある。生活できるくらいに待遇が改善されるのは望ましいこと、というのが社会的な合意であると思うのだが、これに何が問題があるのか。(y)