「東北地方太平洋沖地震緊急支援市民会議・第5次トラック隊」報告その4

トラック隊報告・その4。4月24日(日)、4月25日(月)、萓浜(かいはま)海岸連続
探訪記。
●4.24、4.25の二回にわたって、萓浜(かいはま)海岸を探訪しました。

一度目は雨の中、荒涼、茫漠、寂寥と暗さの中に沈んでいる萓浜、二度目は地震津波の猛威による無残な傷跡を燦々とした陽光の下に晒けだしている萓浜を。
 
萓浜海岸については、3.11以来ずっとテレビ、新聞、雑誌類でその惨状の映像、写真が出ており、福島県の第一原発事態と並んでの地震津波の災禍地として有名になったのは皆さんご承知でしょう。
萓浜(かいはま)海岸は、6号線のその東の方面の海岸一帯を指しますが、東京ドームが2〜30個は入るような茫漠たる相当に広いエリアです。海岸に突き出ている山一つ超えた、その西の先に福島第一原発があります。

幸いにもガイガーカウンターは鳴らず、数値は20〜40CPMでたいした数字ではありません。

津波の前の地震で、海岸に連なる道路は寸断され、特に西の方は、ずたずたで、舗装は剥ぎ取られ、寸断され、道路は右、左にばらばらな少道路片となって散らばっているという具合で、とてもではないが、車では進んで行けません。でかい送電搭とそれより小さいのがふたつが横倒しのままです。


 
地震の際、人家は倒壊したのもありますが、その大半は、その後の津波の猛襲でそうなり、奥地に浚(さら)われたようです。
 
やや高台の地帯では、今も健在なのもありますが、どの家も人は居ませんし、浚われた家屋は見受けられず、その土台が残っているだけです。未だ、見つからない遺体がそこにあるようです。


 
全体的には、西は田んぼ、温室栽培のビニールハウスなどで、東は田や沼沢であったように思われ、その間に、丈の高い萱が群生していたようです。
 
萱は、海岸の決壊してしまった堤防の内側にも群生しています。このような自衛隊員と警察官以外、人っ子一人いない広大な沼沢地、今は泥田に変貌した中にへんぽんと白い2,3台の乗用車が転がっているのが印象的でした。
 
小雨混じりの曇天、強風の只中で、黒潮の海は、荒れており、波は高く、波頭は小津波の様相で、決壊、沈没した堤防を越えて、入り込んで来ています。この海岸線は、地震で沈降しています。
 
僕らは、後片付けをしている自衛隊のトラック、ジープ、重機が駐屯している幾つもの制止線の態勢の間を縫って、なんとか海岸まで行きました。
 
幾度か、自衛隊員に呼び止められましたが、<新鮮野菜も運んできたジャーナリズムの取材活動>と称し、潜り抜けたわけです。

 
雨が激しくなり、太陽が遮られるにつれて、茫々たる萓浜は暗くなって沈んで行き、その荒涼たる様の全体は、陰画の情景でした。
 
翌25日は、<陽光の下>での萓浜でした。
 
僕らは、この地域から、第一原発の20キロ制限地域へ侵入しようと、幾度も手を変え、品を変え試みたわけでが、それは、無理でした。自衛隊や警察が厳しく阻止線を張っており、空にはヘリコプターが舞っていました。ちょっとした70年闘争の風景の再現といえます。

 
三陸地方は、<再建>の掛け声で溢れており、ボランティアも多数詰め掛けているようですが、ここ萓浜、「浜通り」の福島地方では、そういった人々の姿は見受けられず、「再建」のさの字も聞こえてきません。
 
福島県は昔から、海岸の「浜通り」、阿武隈山系内の「中通り」、そして奥地の「会津」の3地域に分けられるそうです。

今もその「浜通り」では、溶融、臨界、爆発の危険は去っていず、海と空、大地は汚染され、こうなごなどは食べられず、「中通り」の山と盆地地域では放射能が沈殿し、野菜類、牛乳は、風評被害も加わって、売れず、飲めず、食えずの状態です。
 
ミク友のいる会津、郡山地方はどうなっているのでしょうか?
 
住民の人々の不安は、全然去っていません。展望が見出せないのは確かでしょう。
 
それを現政権は、一方で、情報統制、「工程表」発表、「仮払いの補償」らで懐柔せんとし、「避難」だけは声高に叫んでいます。他方で、全国の自衛隊、警察官を要注意地域へ集中的に投入し、「直轄管理」を強めてきています。
 
公安も動いています。
 
この様は、「戒厳令」とは言わずとも、福島県を、昔で言えば「天領」的な「政府直轄」県にせんとする思惑が見受けられます。

 
なぜなら、この福島県原発地震津波の三重苦が重なり、もっとも政情不安となる危険性を持つ県ですから。古代から現代まで、東北は朝廷がその支配に手を焼いた地域でもあります。
 
今の状態だけから判断すれば、福島県民は全員とは言いませんが「棄民」され、様態はさまざまにしても、実質「廃県」の危険すらあります。このような性質の他県が、この日本国にあるだろうか、反芻してみました。沖縄「県」のみが、脳裏に浮かんできました。
 
福島県」は、今、「沖縄“県”」にも勝るとも劣らぬ、性質は違うにしても、犠牲、抑圧、被差別の県となろうとしているわけです。
 
僕らは帰途、福島県の《運命》について、や「緊急支援」のその「次のイメージ」を若干、議論しました。「運命」の方については、共通認識が生まれる感じでしたが、「次のイメージ」につきましては、全く定め切れませんで、暗中模索というところ、です。
 
とにかく、状態をもっともっと調査し、点になるような人々を捜し、それを線にしてゆくような人々と結びつけて行くこと。福島の現状をもっともっと、全国に知らせて行くべきこと。
 
25日の夜、投宿したビジネスホテルの近くで、ただ一つ営業していたラーメン屋に行きました。その、跡継ぎの息子さんは、3月30日から、営業をやり始めていること、東京杉並区と南相馬市姉妹都市の友誼を結び、何くれと援助を受けていると誇らしく語っていました。
 
とにかく、差し当たって住民の怒りを、消失、諦念化させず、被害者同盟のようなものをつくり、頑強に抵抗し、ばらばらにされないこと、わずかの反原発労働組合やボランティア団体などが拠点となり、県内外で反原発の絆を強めてゆくこと、廃炉のために、雇用される底辺の労働者達は、ゼネコンらを通じて集められて行きつつありますが、彼らの働く権利を保障してゆくこと。
 
他方、ようやっと盛り上がり始めた東京、関東、静岡、関西の反原発の全国的政治闘争をもっともっと高揚させて行くべきこと。4.10の15000人の高円寺デモ、2500人の芝公園からのデモ、4.24の5000人デモは僕らトラック隊をずいぶんと勇気付けました。
 
6月11日、反原発の大きなデモが、震災以降、3ヶ月目の区切りデモとして、計画が進め始められていると聞きます。最低、10万、20万単位のデモが必要とされています。50万から100万の人々のデモが出現してゆけば、政治は一変してしまいます。
 
ここから、福島住民の活路も見出せるのでは?
 
この陣形の下で、福島県民「棄民」、上からの「天領的」「直轄的支配」、「廃県」路線と闘うべきこと。
 
3人は、<福島県とそこでの民衆の運命>について帰途模索しつつ、25日、午後9時頃か、東京に着きました。
 
僕は、翌日、朝番、5時起きの仕事がありましたが、報告文を書くため、徹夜しました。しかし、なぜだか、心身ともに興奮しているせいか、全く、元気が続いて行ったのです。
 
これにて、第5次トラック隊の報告を終了します。  塩見